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イエズスの聖心の大祝日     Festum sanctissimi Cordis Jesu    


 聖会は御聖体の大祝日から8日後の金曜日を至聖なるイエズスの聖心の祝日と定めた。これは「我等に対する熱愛に絶えず燃え立つ聖心が、信心のある者には憩いの所となり、悔悛する者には救霊の避難所とならん為」で。また天主が「十字架に釘づけられし御独り子をば、兵卒の槍にて貫かしめ」給うたのは、その「開かれたる聖心が神性の溢れるをこうむれる至聖所」として「主の御憐れみと御聖寵との谷川とならん為」であった。

 イエズスの聖心の信心は、その聖い御脇腹の傷に関係があるから、まずこの槍の一刺しに始まったと見る事が出来よう。「槍によって主の聖心は奥底までも開かれ、その御慈悲の深い玄義、我等の天主の御憐れみは明らかに示された(聖ベルナルドの言葉)のである。

 このイエズスの聖心を尊敬した聖人は、昔から少なくないが、その最も名高い人を挙げれば、聖ボナペンツラ、聖女メヒチルヂス、聖女ジェルトールヂスなどを数える事が出来る。しかし現在のようなイエズスの聖心の信心が行われるに至ったのは、聖マルガリア・マリア・アラコック童貞に対し主が特別の御啓示を賜わったによるのである。すなわちイエズスは幾度も彼女に現れて人々を深く愛しながら常に恩を仇で報いられている聖心を示し給い、その祝日を設ける事、償いとして毎月初金曜日に御聖体を拝領して、木曜日の晩にゲッセマネの御受難を黙想すること(聖時間)などをお望みになって、この信心を続ける者には豊かな聖寵を与えると約束されたのであった。

 1765年教皇クレメンス13世はポーランドの司教達の願いによって聖心の信心を許可されたが、間もなくこの祝日は広く守られるようになった。ピオ9世は1856年これを全聖会の祝日とし、レオ13世は1889年第一級の祝日に挙げ、ピオ11世は1928年8日間の特別な祝祭とし、新たな典礼、新たな聖務日課、公の償いの祈祷を定められた。またレオ13世は全世界をイエズスの聖心に献げられたが、ピオ11世はこれを別にしてキリストの王たる祝日を設けられた。

 イエズスの聖心の信心の方法は教皇方の教書とイエズスの聖心の祈祷から出ている。我等は聖心なる象徴の下に天主なる救い主の限りなき御愛と溢れる御慈悲とを崇敬するのである。主の御体の活ける聖心(御心臓)は、愛と苦痛とに充ち溢れて、天主の聖言のペルソナと本質的に合体しているものである。故にイエズスの聖心に尊敬を示せば、それは同時に主のペルソナにも当たり、聖心の中に最も深い御志を示し給うたキリスト全体にも当たるといえる。

 イエズスの聖心は、我等がその限りない御愛に報いるに愛を以てする事を渇くばかりに望んでおいでになる。しかもその感じ給う所は大方いつも人々の忘恩、冷淡、不熱心による孤独の御淋しさばかりである。世の救い主のこのお痛わしい大御心をお察しすれば、聖心の信心の目的も自ずから定まらざるを得ない。それは主の無限の御愛に対し、我等も誠心の愛を以て報い、主に加えられた侮辱を償い、遂には全く彼と一致し奉るということである。

 (1)この目的に添うべくイエズスの聖心の信心の第1の方法は、キリストを知りその愛を悟る為に主の御生涯、御受難、及び至聖なる祭壇の秘蹟(御聖体)に就いて黙想し、以て主の聖心をしらべ究めるにある。それには聖福音またはイエズスの伝記類を読むのがよい。主の慈愛溢れる聖心は、今も罪人が彼の御憐れみを願う告白の時、また飢えたる者が彼に養われる御聖体拝領の時、我等の間に脈打っているのである。

 (2)イエズスの聖心を愛さねばならぬ。一度真にその御愛を悟るならば、我等も愛を以て報い奉らずにはおられなくなるであろう。されば我等はしばしば愛の射祷を献げ、忠実に義務を果たし、主を愛する心から生来の怠惰を矯め直し、悪しき誘惑を退け、忍耐して十字架を負い、主の御徳に倣って彼に似た者となるよう努力しよう。詳しくいえば、天主及び地上におけるその代理者に対する服従、天主の御光栄を揚げる為の熱心と奮発、艱難不幸を物ともせぬ大量、忍耐および犠牲の精神、真の柔和謙遜、他人の欠点に対する寛容などをイエズスから学ぶがよい。これこそイエズスの聖心を真に尊敬する者の徴に他ならない。

 (3)イエズスの聖心に加えられた侮辱を償おう。世の人々が日常の生活や服装などにたしなみを忘れ恬として恥じず、清き者を誘惑し、日曜や金曜の聖日を守らず、天主を冒涜し、教皇司祭達を嘲り、聖い秘蹟を汚し、キリストの創立された聖会の教えや権力に背きなどして主の聖心を悲しませ奉ることは決して僅少でない。故に我等がもし衷心から主を愛しているなら、その御悲しみをわが悲しみの如く悲しむはずである。至聖なるイエズスの聖心は、かつてこの世に在した時ゲッセマネで今より世の終わりに至るまで受ける数々の侮辱を思い、深く苦しみ給うたが、実に人間の犯す罪の一つ一つは、天主の愛をないがしろにする限りない忘恩の沙汰であって、ことごとく償いを要するものばかりである。さればイエズスの聖心に同情するならば、言葉のみならず行いを以ても、すなわち博愛慈善の業を為し、己に克ち我を押さえ、度々敬虔な心で御聖体を受け、主に礼拝し謝罪して、その御悲しみを償うため決心し努力せねばならぬ。

 (4)イエズスの聖心の信心の最も崇高な目的は、完全に主と一致し奉る所にある。愛は心の一致をもたらす。心において精神においてキリストと共にあり、彼と共に感じかつ考え、彼に薫染浸透され、彼に依って活き、その徳に倣って次第に彼に似た者となり、終には全く別のキリストとなること、これこそ一致の意味である。故に一切をイエズスへの愛から行う志を以てその聖心に深く深く一致せよ、天主の聖心に全く余す所なく己を献げて、その聖心があまねく総ての人々に愛せられ、讃められ、称えられんことを望め。これこそイエズスの聖心に対する内的な礼拝であって、これあってこそ外部的な信心の業も活きてくるのである。

 イエズスの聖心の信心の外部的な業としては

 (1)御聖体の祝日から8日後の金曜日にイエズスの聖心を祝う。これは何よりも先ず償いの為であるから償いの祈祷も定められている。その公祭は次の日曜日に行う事が出来る。

 (2)毎月の初金曜日は、特別イエズスの聖心の御悲しみを記念する為に献げられた日で、御聖体を顕示して礼拝し、また償いの目的でこれを拝領する。9ヶ月間初金曜日にこの償いの御聖体拝領を続けたものには、溢れるばかりの聖寵を、殊に臨終の際与えるとは、主が聖女マルガリタ・マリア・アラコックに堅く約束し給うた所である。

 (3)イエズスの、聖心の大祝日は大抵6月に当たるので、その月全体にわたり聖心に対する特別の祈りと信心の務めをする習慣が生まれた。

 (4)祝別されたイエズスの聖心の御絵を家のしかるべき所に飾り、聖心を王として家庭をこれに献げ、一家族その前に集まって祈りを為す信心の業はマテオ・クローリーという司祭の発案に係り、ピオ10世教皇の認可をうけて1907年から広く行われるようになった。

 (5)その外イエズスの聖心は特別の信心や9日間の祈祷や聖心の御絵の崇敬や無数の聖心の兄弟会等によって尊ばれている。

 天主なる救い主はその聖心を尊敬する者に豊かな祝福を約束し給うた。実際真心からこれを為し、キリストの模範に従って己の修養に努める人々には、天主は少なからぬ祝福を下し給う。かような人々はイエズスの聖心の崇敬に献げた努力に数倍する報酬を得るのである。それはあたかも春に種を蒔いた農夫が、秋に幾倍の収穫を得る事にも喩えられよう。